ToyToy屋

不思議な縁と導き

僕が二十代後半に入った頃、僕は三石町にいる心の兄に出会った。彼は同胞(ウタリ)であって、音楽や漫画が大好きな人物で、僕等のライブを多く開催してくれた。そんな思い出もあるのだが、それから15〜16年位は会っていなかった。


僕にとって三石町は母親が生まれ育った村。そんな感じなのです。僕が二十代の頃はアイヌのお婆ちゃんが多く暮らしていた。そして、僕はここのアイヌのお婆ちゃん達から、アイヌの精神や考え方などをインプットしてもらった。そして楽しい日々だったよ。


そんなある日、墓地に行くとアイヌのお墓(クワ)に札が巻かれていた。札には何月何日までに、自分の先祖のお墓ですと役場に名乗り出て欲しい。そんな内容だった。昔のアイヌの人達の風習には、お墓参りと言う習慣はない。だから誰も名乗り出なかった。勿論、お墓の事は部落の噂にはなっていたが、お婆ちゃん達は沈黙を貫いた。


その結果、アイヌの先人達が眠る墓地は、ユンボで掘り起こされ、掘り出された人骨はガスバーナーで焼いて消毒され、一体づつバケツに入れられていた。その時の墓地は骨が焼かれる匂いで包まれていた。そして、その発掘や消毒作業をしていたのは、手首に数珠を付けた同胞(ウタリ)だった。


数日後、先人達の供養(イチャルパ)が行われた。供養に来るお婆ちゃん達と、来ないお婆ちゃん達。行っても辛い、行かなくても辛い。誰も悪くない。でも、みんな悲しい思いをした。あんな辛い経験を僕はした事がない。


それから、暫くたった頃に、先人達はコンクリートでできた慰霊碑にナンバーを書かれ、押し込まれた。その後数年はお盆の時期だけは慰霊碑の鍵は開けられ、先人達に会う事ができたのだが、その後、お盆の時期も慰霊碑の鍵が開けられる事もなくなった。僕と先人達はコンクリートの慰霊碑で切断された。僕はそう思っていた。


そんな事があって、僕は三石町から離れていった。でも、その経験から、僕は先人って言う曲を書いた。書いたと言うか書かさった。一瞬で書き終えた。僕はあの曲を書いた事で、三石町での出来事に、自分なりの供養と区切りを付けたつもりだった。


それから10年後、先人はram(想い)と言うCDアルバムにパッケージされリリースされた。そのCDを三石町にいる心の兄が、オンラインで購入してくれていた。嬉しかったよ。そして、数年前、ポロトコタン閉館式で僕は心の兄に再会した。彼は開口一番、あのアルバム、いい曲入ってるぞ!だった。でもね、その時の会話はそれだけだったんだ。


そして、最近、ヤフーニュースで彼を発見し、心配になって僕は彼に電話した。そして久々に彼と会う約束をしたのです。彼も何か考えている事がある様子なので、僕等は新日高町へ車を走らせた。


久々の再会、彼と彼の仲間も駆けつけ、彼等の壮大なコンサートプランを聞いた。夢はでかい方がいい、でかいだけでもいい?そんな壮大な話しを聞いた後に、僕は彼と本題に入った。


僕は彼と一緒に仕事ができないか、切り出した。すると彼はアスパラの仕事が上手くいったと言い出した。そんなお互いの近況報告をしながら、その晩は札幌へ帰ったのだった。


札幌でそのアスパラを調べてみた。素晴らしいアスパラで凄いポテンシャルがあると僕は判断した。彼に連絡し、アスパラのパッケージデザインをさせて欲しいと電話しようと決めていた。すると彼から僕に間違い電話が来た(笑)


僕は電話をかけ直し、アスパラのパッケージデザインをさせて欲しいとお願いした。彼は喜んでくれた。僕はアスパラの方にはブランディングは入っているのって彼に聞いた。彼は何も入っていないと答え、誰かいるなら、紹介して欲しいと言って来た。


初めて、彼からお願いされたよ。信頼する仲間にブランディングをお願いする事にした。僕はパッケージデザインだけにする。だって、三石町には思いが強すぎるからね。しかもそのアスパラのビニールハウスは元々、僕の親戚の土地であって、何とも言えない気持ちでね。


でも、先人達の土地から、アスパラが生まれ育ち出荷されているって、素晴らしい事だと思うのです。そしてパッケージデザインに僕がアイヌ文様を入れる。何か深い悲しみを乗り越えた様な感覚です。そして、全ての経験には意味があったと思う。


まさかアスパラで繋がるとは思いもしなかったけど、全ては繋がった気がする。こんなコロナ禍の時期に素晴らしい繋がりが生まれる。先人達もきっと喜んでくれると思う。みんな、繋がってくれて、ありがとう。







今日も最後まで読んでくれて、イヤイライケレ〜



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